雑感コラム 「喝」という言葉 (2024.05.01)
情報番組のスポーツコーナーで、プレーを評価するのに「喝(カツ)」とか「アッパレ」とか言って、そういうシールを貼り付けることがある。スポーツ選手の評価が、コメンテーターによって下されるのだが、試合やプレーの内容をあれこれ細かく言うよりも、「喝」とか「アッパレ」と言ったほうが、はるかに分かりやすい。
明らかに下手なプレーであれば「喝」であり、素晴らしい内容のプレーであれば「アッパレ」ということになる。「喝」は注意する意味で言うのだろうし、「アッパレ」は誉める時の使い方である。
その時は何気なく聞いているのだが、この二つの語は普段にはあまり使うことのない言葉である。それなのに分かりやすい表現であるのも確かである。ここ最近で身近に「喝」とか「アッパレ」とかいう言葉を聞いたことのある人は、ほとんどいないはずである。それほど珍しいはずなのに、その割には聞いたらすぐ分かってしまう。その言葉の意味は誰にでも分かるだろうから、そのことが面白いと思った。
「喝」というのは叱咤激励というようなもので、上手くいかないことを叱るような意味である。それに対して「アッパレ」は誉める意味である。「天晴」という漢字を使う。字の如し、誉めたたえる気持ちを表して、「みごとだ」とか「すばらしい、でかした」というような意味である。その表現は、随分前から使われていたようで、「平家物語」にも次のような一文がある。「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人当千の兵ともいふべけれ」。
「喝」は、「しかる」とか「人を叱咤する」というような意味である。「声を大きくして叱る」とか「責める」というような時に使われる。
「喝」は、とりわけ仏門の禅宗では、修行者を叱ったり導いたりする時に用いられる。怒鳴りつけたりするような声ということでもあるから、普通の叱る時に使われる「喝」とは、意味が違ってくるのかもしれない。言葉や文字では表し難い心の動きを示したりする時に使われるのである。
「喝」という言葉も、使われていたのは古くからである。中国では、唐の時代にはすでに使われていた。
特に禅宗では特別な言葉だった。唐の高僧、臨済宗の祖である臨済義玄禅師がよく使ったことから、「臨済といえば喝」、「臨済義玄の喝」と言われている。「臨済禅師、僧の門に入るを見て、即喝す(道元大和尚仮名法語)」仏の法を言葉で解き明かす時に、言葉だけでは説明しつくせない極意の表現として用いたのである。
禅学大辞典では、「大きな声でいうこと、禅宗では種々の意味をもつ」と説明される。そして次の三つの説明がある。一つが、「叱りつけること。大喝一声」。二つが「唱えること」。三つが「師家が学人を導く手段」である。
そして、臨済禅師はたったひと言の「喝」に、四つの働きを見出した。それが「臨済四喝」と言われるものである。
一つは「金剛王宝剣のごとし喝」。
修行者の迷いを鋭い切れ味の宝剣で斬るように切り捨てる「喝」。一切の煩悩を断ち切る働きの「喝」である。
次に「踞地金毛の獅子(こじきんもうのしし)がごとき喝」。
踞地とはうずくまることである。獲物に狙いを定め、うずくまって力を溜めている獅子。気迫に満ちて威厳があり、何ものも寄せ付けない「喝」である。
三つが「探竿影草(たんかんようぞう)のごとき喝」。
探竿影草とは、漁師が草の下に魚がいないか探して竿で探ること。目の前にやってきた者が、本物か偽物か見極めるための「喝」ということである。
そして四つが、「ある時の一喝は一喝の用を為さず」という臨済録の「喝」。
修行者が修行を重ねて、「修するに修するの道なく、学ぶに学ぶの法なき」という境地に至る仕上げの「喝」である。
「喝」とは、禅宗の僧が用いた叱声に由来する。
師は弟子を経典の講義や説法以外に、日常の挨拶や対話を重視して言葉で叱った。励まし、導くのに用いたのである。そして,言葉によっては表現できない絶対の真理を、「喝」というひと言によって表わし、それを悟らせようとした。
「喝」という言葉を浴びせられたいと思っている。今の自分を見つめるため。今の周りを見つめるため。「今」と「過去」と「未来」を見つめるためにである。
喝」。
黒木美喜